政治家の闇と正義 木原誠二官房副長官の妻の元夫の怪死事件と伝説の取調官の戦い

木原官房副長官

こんにちは! Tabby(@Tabby_blog)です。

今回は、現職の国会議員で岸田総理の右腕として手腕を揮っている「木原官房副長官」に関する記事について要約しました。

ただ、今回の主人公である佐藤警部補は定年退官されてから週刊誌の取材に対して告白したもので、公の立場を去ったといっても守秘義務が付きまとうと想像しますが、この現職議員の問題もさることながらご本人の今後の立場が心配になります。

権力のある人の暴挙というのは昔のこと、映画の世界でのことだと思ってましたが、これが真実だとすると現在の情報社会の中、それも現職で重要なポストに就いている方が関係しているとなると恐ろしい限りです。

この記事を最後までご覧いただければ幸いです。

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目次

調査一課の”伝説の取調官”の話

police badge

警視庁捜査一課殺人犯捜査第一係・通称「サツイチ」に所属していた、佐藤誠警部補(当時)だ。

“事件性なし” との発言に対する感情

ここで語らせていただきたいのは、警察庁長官の露木康浩氏が先日の定例会見での発言についてです。

彼は、我々がこれまで捜査してきた安田種雄さんの不審死について、「証拠上、事件性が認められないと警視庁が明らかにしている」と述べました。

しかし、私たちは真剣に捜査を行い、それぞれのホシを挙げるために全力を尽くしていたのに、志半ばで中断させられました。

X子さんとの初対面とその後の捜査

初めてX子さんと対面したのは、2018年10月初めのことでした。初めて会ったとき、X子さんは全く話さなかったのです。

しかし、日々、彼女は警視庁本部と自宅を往復し、私が取り調べを進める中で、彼女はDNA採取のための採尿や採血を拒否しました。

取り調べを中断させられる

取調室

このような状況の中、木原氏は私たちに指示を出し、「国会の召集日までに取り調べを終わらせろ」と言いました。

彼は国会が開始されると、自身の妻の取り調べが行われる間、子供の面倒を見る人がいなくなると主張したのです。

その国会は10月24日に開かれる予定でしたが、12月には閉会予定でした。

私は「国会が終われば取り調べを再開できる」と思っていました。

しかし、10月下旬、上司である佐和田立雄管理官から、「明日で全て終わりだ」と告げられました。

X子さんの取り調べが中断される瞬間

怒り心頭

それは非常に衝撃的な瞬間でした。X子さんの取り調べが進行している最中、突然調査が中断されると言われたのです。

私はこれまでに捜査一課で100件近くの調査を行ってきましたが、このような経験は初めてでした。

そのため、悔しさと怒りで頭がいっぱいになりました。

その後、私はX子さんの「最後の取り調べ」に臨むことになりました。その結果や今後の展開については、また皆さんに報告させていただきます。

経 歴

経歴

木原 誠二(きはら せいじ)

  • 生年月日: 1970年6月8日(53歳)
  • 出 身:東京都渋谷区
  • 出身校:東京大学法学部
  • 前 職:財務省
  • 所属政党:自由民主党(岸田派)

豊かな経験を活かし、日本の政界をリードする政治家。衆議院議員を5期にわたり務め、現在は自由民主党所属の政治家であり、財務官僚としても活動いた。

経歴は豊富で

  • 内閣官房副長官
  • 内閣総理大臣補佐官
  • 外務副大臣
  • 外務大臣政務官
  • 衆議院内閣委員長

という重要な役職も歴任した。

学生時代 国際的な視野を身につける

5歳までアメリカ・シカゴで過ごし、1979年にはアムステルダムへ。

  • 新宿区立戸塚第二小学校に転入
  • 武蔵中学校・高等学校
  • 東京大学法学部

この学生時代の国際的な経験が、後の政治家としての視野を広げる基礎を築いたのです。

財務官僚としてのキャリア 多岐にわたる経験を積む

財務省

大学卒業後、大蔵省(現在の財務省)に入省し、証券局企業財務課に勤務しました。

その後1995年から1997年にかけては、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学び、さらに1999年から2001年には英国大蔵省に派遣されました。

帰国後は主計局法規課での勤務を経て、2001年7月に財務省大臣官房文書課長補佐(審査管理)兼大臣官房秘書課長補佐(調査)に就任し、2003年7月からは国際局の課長補佐を2年間務めました。

その後2005年7月には岩見沢税務署長に転任しましたが、同年8月の郵政解散を受けて政界への道を志し、財務省を退職しました。

政治家としての道 挫折を乗り越え、多くの重要ポストを経験

国会議事堂

2005年の第44回衆議院議員総選挙で自由民主党公認で東京20区から出馬し、初当選を果たしました。

しかし、2009年の選挙では敗れ、一時は政界を離れ、縄文アソシエイツでコンサルタントとして勤務し、政策研究大学院大学の研究員に就任

しかし政界への情熱を失うことなく、2012年の第46回衆議院議員総選挙で再出馬。見事当選を果たし、国政へと復帰しました。

その後は次々と重要なポストを経験。2013年9月の第2次安倍内閣で外務大臣政務官、2015年10月には外務副大臣に就任しました。

2017年10月の第48回衆議院議員総選挙では、日本共産党の宮本徹らを破り4選。

そして2021年10月には、内閣官房副長官、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障に関する重要政策担当)に就任し、さらに同年の第49回衆議院議員総選挙で5選を果たしました。

2021年12月には内閣総理大臣補佐官(国家安全保障に関する重要政策担当)を一度辞任しましたが、2023年2月からは内閣総理大臣補佐官(国家安全保障に関する重要政策及び核軍縮・不拡散問題担当)を再び務めています。

このような経歴を通じて、多くの重要な経験と広範な視野を身につけ、現在も日本の政界をリードし続けています。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。

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