上岡龍太郎さんの人間性とその生涯を讃える追悼

2023年5月19日、上岡龍太郎さんがこの世を去りました。81歳でした。

私は昭和40年代生まれで、子供の頃、テレビで「上方漫才」や「吉本新喜劇」を見るのが常でした。父の世代から愛されていた上岡龍太郎さんと横山ノックさんのパフォーマンスは、私がテレビを通じて何度も目にしたものです。

そのため、私たちの世代が子供のころから続いてきたお笑いの時代・終焉を感じさせるものです。

上岡さんの発言は新聞やテレビ番組で度々取り上げられ、その存在感は圧倒的でした。ときに厳しく、ときに優しく、損得を考えずにただただ真剣に向き合ってくれる人物として私たちの心に強く残ります。

<スポンサーリンク>
目次

エンターテイメント界での生涯

彼の生涯は漫才師、そしてタレントとしての活動に捧げられました。吉本新喜劇に入団したのは20歳の時で、それ以降、彼の人生はひたすらエンターテイメントへの道を突き進んでいきました。

  1. 横山ノックからの誘いで、漫画トリオというグループに加入した。
    この時の上岡龍太郎の名前は横山パンチでした。
  2. このグループ結成の背景には、上岡のユーモラスなセンスがネタ作りに必要だったため、ノックが声をかけたとされています。
  3. ノックは上岡より10歳年上であり、師匠と思われがちですが、実際には師弟関係ではなく、同僚であり友人でした。
  4. 上岡はノックと共に舞台に立っていた別のグループからノックに誘われ、一緒に新しいグループを結成しました。
  5. それでも、漫才の舞台ではノックからツッコミの技術について厳しく指導されました。
  6. ノックの弟子である横山やすしと上岡の年齢は近く、同じノックの関係者という立場であったが、その関係性は微妙でした。やすしはノックの弟子であり、上岡はノックの仲間であり、芸歴はやすしが上岡より長かったためです。
  7. しかし、やすしは漫画トリオの付き人でもあり、上岡(当時の名前はパンチ)の世話もしていました。上岡によれば、やすしはこの役割をしっかりとこなしていたとのことです。
  8. やすしがまだきよしさんとコンビを組む前、他の漫才師から「将来どんな漫才をしたいか、誰と組みたいか」と聞かれた際、やすしは「パンチさん(上岡)と漫才したい」と答えたと伝えられていますが、それに対して「似たようなスタイルで組んでどうするのか。

    漫才は違う個性がぶつかるからこそ面白いのだ」と指摘されたというエピソードがあります。

※敬称略

人々を魅了し続けた個性

上岡さんは人々を魅了しただけでなく、彼の透明で真剣な姿勢は多くの人々に影響を与え、そして時には物議を醸すこともありました。

しかし、そのすべてが上岡さんの個性と魅力を形成し、彼を忘れられない存在にしました。

彼が逝去したことは、私たちだけでなく、多くのファンにとっても大きな衝撃です。

絶頂期のテレビ出演

上岡龍太郎さんは、1970年代から1990年代にかけて、数多くのテレビ番組に出演し、その鋭いトークとユーモラスなキャラクターで日本中の人々を魅了しました。

上岡龍太郎の金曜夜席

特に、「上岡龍太郎の金曜夜席」は、その人気が絶頂に達した時期であり、その番組は多くの若者から絶大な支持を受けていました。

その一方で、上岡さんの発言には時として物議を醸すものもありました。

特に記憶に新しいのは、1989年に放送された「上岡龍太郎の金曜夜席」での「いじめ」についての発言です。

しかし、これらの失言も含めて、上岡さんは常に自分自身であり続けました。それが、彼の魅力の一部であり、彼を愛する多くの人々にとっては彼の人間性を象徴するものでした。

探偵!ナイトスクープ

上岡さんの代表番組の1つが『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)。

現在まで続く人気長寿番組だが、1988年の番組開始当初から12年間、初代局長を務めた。当時番組プロデューサーで、退職後もご意見番として番組に関わる松本修氏が、強面で知られた上岡さんの素顔を明かす。

「私と上岡さんとは1976年の番組『ラブアタック!』の頃からのお付き合いでして。

普段は本当に穏やかな人でした。本番前の楽屋で、上岡さんは僕が結婚していないことを引き合いにして『松っちゃん、

結婚せえへんの?(『ナイトスクープ』で秘書をしていた)岡部(まり)さんとしたらええのに』とイジったりして、みんなで笑い合っていました」

ただし、番組については妥協を許さず、衝突も恐れない。『ナイトスクープ』でもVTRに納得いかず、収録中にもかかわらず激昂することがしばしばあった。

 1994年4月29日に放送された『恐怖の幽霊下宿』というテーマでは、下宿先の幽霊に悩む医大生の依頼を桂小枝探偵が検証。

しかし霊媒師を呼んで幽霊がいるかなどの聞き込みをしたりと、VTRが“おふざけ”に舵を切りすぎてしまったため、上岡さんは「なんの実証もされてないわけでしょ」と怒り出した。

桂小枝も「面白かったらいい」と意見したが、上岡さんは「テレビのそれが一番僕はいかん」と途中退席してしまった。新聞記事にもなるほど大きな騒動になったが、これには後日談がある。

「何年後に、その回のディレクターと上岡さんが2人で食事をしたんです。すると、上岡さんが『君はあの時、ひと言も謝らなかった。

もし君が(場をとりなすために)謝ったりしていたら、俺はこの番組を降りていた』と話したそうです。志を持って番組をやっているなら、意見は違えど認めると。

上岡さんは毒舌で、怒ることも多かったですが、裏にはこうした人に対する誠実さを持ち合わせていた方だと思います。

ちなみに上岡さんはこの怒って出ていった翌日に東京で生放送があり、それを知っていた僕と百田(尚樹氏)は、空港で上岡さんを待ち構え、偶然を装って『上岡さん』と笑顔で挨拶をした。上岡さんは苦笑いでしたよ」

エンターテイメント業界への影響

上岡さんの功績は、日本のお笑い界にとどまらず、日本のエンターテイメント業界全体に大きな影響を与え、その独特の語り口で多くのファンを魅了し、多くの人気番組を担当し、また、数々の新人タレントを育てる役割も果たしました。

その存在の大きさからお笑い界にとっても大きな喪失となりました。

しかし、私たちは、彼の名を忘れず、彼が遺した精神を今後も大切にしていきたいと思います。これからも、上岡龍太郎さんの冥福を心から願い続けます。

記憶に刻まれる存在

どんなに時が経っても、上岡龍太郎さんの独特の語り口と、その鋭い洞察力は私たちの心に深く刻まれています。彼の精神は、これからも私たちとともに生き続けます。

ありがとうございました。上岡龍太郎さん。心からご冥福をお祈り申し上げます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次